チンボラソ(6310m)登頂記

2003年4月25日〜5月8日の記録

2003年6月1日
栗本 俊和


2003年の5月連休は、南米エクアドルの最高峰チンボラソに登りに行くことにした。チンボラソは赤道直下にあり、地球の中心から測るとエベレストよりも高いといわれている山である。
いきさつは、2002年の正月にアコンカグアに挑戦したが残念ながら高度順化が十分にできない状態でのアタックとなり敗退した、そして、今年末そのリベンジに出かけようと考えているが、そのための前哨戦、腕試しとして手ごろな山として、チンボラソに決めた。
だが、登ってからの感想ではあるが、チンボラソはアコンカグアより難しい山であるというのが、率直な感想です。その理由としては、アコンカグアは雪はほとんどなくザイルなしですむ山であるのに対して、チンボラソは完全な雪山でありクレバスありで常にアンザイレンを強いられる山である事がその主なものだ。

ウインパー小屋5000mから望むチンボラソ


今回は、2002年正月にアコンカグアに行ったが、天候、体調などで登れなかった人たちに声をかけて、個人グループの登山隊を編成することにした。トレッキング会社がツアーを募集はしているが、この時期はどちらかというとシーズンオフで人が集まらず催行されないのが通常であり、自分から積極的に隊を組むことにした。結果、下記の4人の山仲間が集まった。
1. 54才男性、K(私)(東京)、  2. 61才男性、Y氏(埼玉、アコンカグア登頂済)、
3. 51才女性、STさん(東京)、 4. 50才女性、SSさん (兵庫)
ところが出発1ケ月前になって、経緯は省略するが、61才男性S氏(東京)が参加することになり、又日本人の添乗員が同行することになった。山行計画も一部変更し、チンボラソの他に、コトパクシにもアタックする計画とした。従って、結果的には、メンバー5名(平均年齢55才)に、添乗員A氏が同行する中高年登山隊が成立した。
今回の手配は、(株)ワイルド・ナビゲーションに依頼した。

登山の結果は、5月4日に、Y氏を除く4名+A氏が、無事チンボラソに登頂できました。

我々登山隊のスケジュールは、2003年4月25日〜5月8日の14日間でした。

4月25日に、成田よりヒューストンを経由して、その日の夜遅く、エクアドルの首都の キトー2850mに到着した。空港には、これから2週間行動を共にするガイドのパトリシオとドライバのルイスが出迎えに来てくれていた。パトリシオは日本にも来たことのある日本語の話せるガイドで、いろいろと意志疎通の面で有効でした。キトーのホテルは空港からも近く、新市街のカトリア大学そばのこじんまりとした静かなホテル(HOSTAL)、 LA PIEDRAに宿泊した。

<エクアドル、火山通り概念地図>

4月26日、キトー滞在、高所順応を兼ねて市内観光
まずコトパクシを眺めるために朝早めにパネシージョの丘に登った。キトー市街を一望すると同時に、コトパクシも遠くに眺めることができた。そして、旧市街セントロに向かい、独立広場、カテドラル、サン・フランシスコ教会などを見てまわった。その後、赤道記念碑に向って走り、昼食をとってから赤道公園をゆっくりと見学した。
赤道記念碑からの帰りの車の中で気分が悪くなってきて、ホテルに戻ってから嘔吐した。車に酔うことも余りないし、昼食も減らして食べていたのにこの有り様ですから、高山病の初期症状と考えられた。今回は出発前にひいた風邪がまだ完全に治っていない状態で、風邪の薬は医者にもらったのを持参していて、状況にあわせて少しずつ飲んではいたが、ダイアモックスなどの高山病対策の薬は基本的に飲まない方針でいた。即ち、ゆっくりと高所に体を慣らすことで順化を図り、ダイアモックスは副作用が強いので、出来るだけ 使用しない考えでいた。よって、今回は何も薬を飲まないで夕食を抜くのが対策でした。夕食時はお茶ばっかり飲んでいた。

サンフランシスコ教会

赤道記念公園


4月27日、パソチョア山(4200m)へ高所順化登山
朝食は少な目だが普通に食べる。特に異常はなさそう、一安心する。
7時、車止めからゆっくり歩きだす。曇ってきた空が、もう少しで頂上というあたりから雨が降り出し、雨具の上着のみ着込む。かなりの雨になってきたが、12時過ぎに頂上に到着する。5時間かかった。(順化登山ということで、ゆっくり歩いたので予定時間を大分 オーバーした)30分程して下山にかかる。雨は次第に本降りとなり、一気に下り、3時過ぎに車の所に戻った。全員元気。
夕食は少な目にしたが、高山病の方は特に問題なさそうだ。順化の一過程と思えるようになってきた。

4月28日、ルミニャウイ山(4700m)へ高所順化登山の予定
登山の予定で出発したが、車で移動の途中から雨が本降りとなり、これでは登山に宜しくないと、コトパクシ国立公園の入口のところで予定変更し、コトパクシ山駐車場4500mの方へ向う。
上部は雲に覆われていてコトパクシは見えないが、駐車場を9時過ぎに出発し、ホセリバス小屋までゆっくり歩き、10時半に到着した。4800mまで初めて登ってきて、かなり息苦しく感じた。小屋では紅茶を何杯もゆっくりと飲み、パンなどを軽くたべながら12時過ぎまで滞在し、高度順化に努めた。
下山後は、コトパクシのVolcano Landというロッジ(3800m)まで車で移動し宿泊した。

ホセリバス小屋

ホセリバス小屋で昼食


4月29日、コトパクシ滞在(付近の散歩のみ)
この日は休養日です。何ヘクタールもの土地を持った農家が観光業も始めたようなロッジで、イギリス人、ドイツ人などの観光客がいて、馬乗り(ホースライディング)を売り物にしているようにみえた。我々は、午前中この農家の放牧地を2〜3時間かけて散歩した。途中でコンドルのペアーがゆったりと飛んでいるのを目撃した。
午後は、ガイドによる装備のチェックが行われ、アイゼン、手袋、下着まで全部念入りに調べられた。その後、明日からのコトパクシアタックに向けて、荷物分けを行った。あとは、ゆったりとした気持の良いロッジでコーヒなど飲みながら、おしゃべりに時間をつぶした。この3800mでの順化がキーポイントとなる。平地と同じように過ごし、寝ることができるかが、その判断材料となる。特に余計なことは感じなかったので、良しとしよう。

ロッジ volcano land

sincholagua 4890m


4月30日、ホセリバス小屋(4800m)まで登り宿泊
9時ロッジ発、10時駐車場着。上は雲の中、ホセリバス小屋に12時に到着、昼食。午後、雪上技術の確認を行うという話であったが、雨が降り、風もでてきて中止。
夕方から晴れてきて、コトパクシが良く見えてきた。写真を撮る。
しかし、晴れは長続きせず、また曇ってくる。

小屋よりコトパクシ

コトパクシ山



5月1日、コトパクシ(5897m)のアタック日
風とみぞれの降る中、真夜中の0:10出発。ガイドはパトリシオの他に2人を追加し、計3名のガイド。途中2ピッチ目でアイゼンを着けて、アンザイレンしての再出発。但し、この時点でパトリシオの体調思わしくなく、ザイルから外れる。彼はこのあと小屋に戻る。
ザイル編成は、
第1パ-ティー: ガイドのホセ +Y氏 +K(小生)+S氏 の順で4名
第2パ-ティー: ガイドのエドウー+SSさん+STさん+A氏 の順で4名
の編成となる。
1ザイルに4名となり、この時点で、この隊は、だれか脱落者が出た場合対処できない パーティ編成となった。チーフガイドのパトリシオの離脱、撤退は問題の始まりである。(サブガイドは今日来たばかりで、我々とのコミュニケーションは今までない。この時点で、リーダはA氏に代わったと考えられる)
途中クレパスがあったり、急斜面になったりするが、暗くて良くはわからない。前に従って歩くのみ。4時50分頃の休憩で、ガイドから、ちょうど半分登った所だ(5350m?)、遅れているし天気も悪い、この辺りまでにしてはいかがかという打診がA氏を通じてある。この時は、もう少し行けるところまで行こうという事で出発する。
次のピッチでY氏の歩行が大部あやしくなってきた。ガイドのホセが引っ張りあげようとするが、Y氏からギブアップの意志表示。その少し前に、Y氏の懐中電燈の電池替えを急斜面で行っている間に、後続パ-ティ-に抜かれていたため、ホセはここではどうする事もできず、とに角、次の休憩点まで登るしかないという意向で、Y氏をグイグイ引っ張るがなかなかはかどらない。
そうしている間に今度は、私の左アイゼンがはずれた。この急斜面では、とても1人ではアイゼンは付けられない。カラビナ不要ということで持参していないので、アイゼンをつるす道具もない。右手にアイゼンを持つしかない(サブザックにつるすことはこの時は思いつかないし、又急斜面でザックをおろすという訳にも行かない。前後のサポートも得られない)。左手のピッケルと右足のアイゼンのみで踏ん張るが、急傾斜のためかなりきつい。一度アイゼンを落とすが(右手からアイゼンがはなれたという感じ)、後ろのS氏に拾ってもらい事なきを得た。2点確保だし疲れるし、今度は私がブレ−キになる。
疲れ果てて、ようやく休憩ポイントの5500mに到着する。ちょうど午前6時、Y氏に続き私も撤退表明。第2パ-ティ-では、SSさんもY氏と共に下山させることを考えていたが、私の撤退表明を受けて、結局他の2人も下山の意向を表明し、ここで全員下山することになった。夜が明けても、明るくならず、悪天候はそのまま変わらずだし、ここからあと3〜4時間(もっとかかるかも?)の登行を残しては、下山もやむなしというところであった。
下山後聞いた話では、今日は他に2〜3パーティが登ったが、結局どのパーティも登頂できなかったそうだ。
私のアイゼン(ワンタッチ+バンド式)は、前日のチェックで問題なく、後程リオバンバでガイドに見てもらっても異常なくチンボラソにもそのまま登った。結局、変な横力でも加わり締めのバンドがゆるかったためにはずれたと考えた。チンボラソではバンドを十分に強く締めるというのが対策で、結果問題はなかった。
7:35、ホセリバス小屋に戻る。9:35、小屋発。10時、駐車場着。
午後2時頃に、リオバンバの町に入り、今日の宿泊地のリゾートホテルのエルトロージに落ち着いた。(2750m)

5月2日、リオバンバ滞在(休養)
濡れた衣類を干して乾かす。ホテルの周囲を散歩し、昨日の反省など話あう。
11時頃車で市内に出かける。観光と昼食が目的、リオバンバは小さくまとまった、なかなかいい町だ。教会、スークレ公園などを歩いて見てまわり、昼食はレストランEL DELIRIOで食べたが、山の写真が貼ってあってしゃれた店だった。その後、小高い丘の上にある 4月21日公園に行ったが、チンボラソは雲の中で見えなかった。

リオバンバのレストラン

リオバンバのロッジ



5月3日、ウインパー小屋(5000m)へ移動
正午ホテル発、車で登って行くにつれて索漠とした景色になってくる。チンボラソは見えてくるが、頂きの方は少し雲がかかった状況だ。1時に駐車場のあるカレル小屋着。準備をしながら、ガイド達が来るのを待って出発。3時半には、ウインパー小屋に到着する。
この小屋は、あのマッターホルンの初登頂者でもあるウインパーがチンボラソの初登頂者であることから、ウインパー小屋と名づけられている。小屋には銘版がはめられていて、建設日時もかかれていた。20数年前に建設された小屋だ。
夕食は5時からで、カレーだった。このカレーは今日来たガイド達がキトーで料理したのを持参したものだ。あと、フルーツが山盛り出された。これもキトーで買ってきたものだ。あまり量が多いので、3分の1ほど残して、夜のアタック前に食べることにした。
外に出ると、空が晴れてきて、チンボラソが夕日を浴びて美しい。皆で写真を撮る。18時に寝る予定が18時半近くになって、シュラフに潜りこんだ。すぐに寝ることができた。21時起床予定の30分前に、目が覚めた。熟睡できて、非常に気分がすっきりし、高山病の気配がない。トイレに行き、外を眺める。晴れている。星も出ている。これなら明日の朝まで天気はもつだろう、風もない。今日は登頂できるだろうと確信し、心も弾む。もう横になる必要はない。出発準備に入る。ビタミン剤1錠のみを飲む。日記に記録を書き込む 余裕がある。今朝の準備の手順を確認する。今日は寒くなさそうだから、羽毛のインナ−は着ないことにする。明け方寒くなった時に着られるようにサブザックに入れる。21時になって、まだ寝ている人を起こす。
日本から持参したレモンを切って、レモンティー1リトッルをテルモスに入れる。500mlペットボトル2本に水+お湯でポカリスエットの粉末を溶かして、ドリンクを作る。計2リトッル。 立ちながら、パンを食べ、又、行動食用にサンドイッチを作りながら、紅茶を飲みながら、出発準備と忙しい。ハーネスを付け、コトパクシの反省にたって、シュリンゲ、カラビナを2枚身につけて、準備完了。

<チンボラソ登山ルート図>


ウインパー小屋

チンボラソ山



5月4日、チンボラソのアタック日
前夜22:05が出発時刻となった。最初の2ピッチはザイルなし。1列になって歩く。岩峰の基部(5200m地点)を通過し、トラバースの終了地点(5300m)急斜面になったところで、アイゼンを装着したと思われる、pm23:45〜24:00、実際には暗くて状況はよくつかめないが、高度計のログブック記録からの推定。ザイル編成は、
1パ-ティ、 パトリシオ(チーフガイド)にS氏の2名、
2パ-ティ、 ホセ(ガイド)にSTさんとK(私)の3人、
3パ-ティ、 エドウ(ガイド)にSSさんとA氏の3名、
4パ-ティ、 ヘンリ(ガイド)にY氏の2名、      の4パーティとなった。
ガイドの数は、4人で行く予定の時に3人のガイドと決めた。その理由は、1人が途中で下山した時ガイド1名が一緒に下るので、ガイド2名だと残りのガイド1名が3人の客をみなければならない。これは夜間の行動ではガイドとして厳しいということで、ガイド1名に対して、2名までになるように3人ガイドとした。この体制にS氏が加わり、S氏にガイドが1人つくという計算で、4人のガイド体制となった。
S氏は別に後から参加したので、1人で登れるようにガイドとマンツーマンになった。Y氏はコトパクシでギブアップし、今回もむつかしそうで途中撤退の可能性が予想され、やはりガイドとマンツーマンにしたようだ。女性ではSSさんの方がアイゼンに慣れていないので、A氏がフォローする形でガイドを入れての3人パーティー、残ったガイドのホセにはSTさんをセカンドにし私がラストの3人パーティ編成となった。

ザイルを付けてから急斜面を登り、午前1時過ぎ、西稜のコル(5450m)の平坦なところに着いた。ここまでトップで登っていたが、この後、パトリシオパーティーが先行する。順調にコースタイム通り快調に登ってこられたので、このあともこのまま行きそうな気がした。コルからは西稜の斜面をひたすら登る。4時頃5900m、6時頃6050m、途中寒くなってきたので、羽毛のインナーを着込む。6050m手前で下から日本語で声がする。ホセから後ろのパーティは下山したと聞いていたので、びっくりした。「Aです、だれですか?」の問いに、「Kです」と答えて休憩して待っていたら、A氏とSSさんが登ってきた。SSさん曰く、着過ぎていたので、一度脱いで、着替えしたので、時間ロスをしたが、その後追いかけてきたとの事。Y氏は西稜のコル付近までで降りた、と聞かされた。
5時はまだ暗かったが、次のピッチで明るくなってきた。1時間程歩いたところで、休憩を求めたが、トップのホセまで伝わらないのか、疲れた状態で歩かされる。もうほとほとに休憩してくれよと思っていたところで、西峰のピ−ク(6267m)に到着した、a.m.6:35。

チンボラソ登頂

チンボラソ頂上1


10分程前にS氏が到着したとの話、まず休憩して、美しい頂上の写真を撮ろうと考えていたところ、S氏とSTさんが主峰になぜ行かないのだと、パトリシオに談判を始めた。 結局行くことになり、主峰に向ったが、途中のクレパスが渡れなくて引き返してきた。周囲の山々が下の方に小さく見える、コトパクシも見える。写真を撮る。天気は快晴で、風もなく、太陽が昇るにつれて暖かく感じるようになってきた。
7時5分、頂上を出発する。ホセと2人で下る。暗かった時見えなかった景色を眺めながら、途中で少し写真を撮りながら、こんな所を登ってきたのかと感心しながら下るが、途中で適当に休まないとつらい。ガイドと2人だと、どんどん下ることになるので、疲れるが、あっという間に下っていく。9時前にアイゼン装着地点を通過し、安全な場所でザイルを解き、やっと自由になった。ゆったりと休憩する。10時には、ウインパー小屋着。
Y氏が小屋の前にいて、登頂を祝つてくれる。彼とは1年半前のアコンカグアを一緒したのだが、その時は、彼が登れて、私が登れなかった。さぞ残念であったろうと思うが、トレーニング不足気味だし、仕方なかろうと思ったりする。
軽くパンなどを食べて、12時前に小屋を出発した。12時半、駐車場発。15時頃、バーニョスの町に入り、ホテルSANGAIに宿泊した。

今回、登頂できた理由を考えてみると、以下の理由が考えられた。
1)天気晴天。快晴、無風で最高のアタック日よりとなった。我々が小屋に戻ってくるまで、完全に晴れていた。
2)高所順化が順調にできた。ダイアモックスなど薬に頼らず、コトパクシアタックを含めて順化プロセスで適応できたと思う。特に、5000mで熟睡できたのは、大きい。
3)雪質良好。アイゼンが程よく効いた。ラッセルなし、雪崩の恐れも少ない。夜中に登ったので、温度上昇による雪崩の恐れも無かった。
4)コトパクシでの予行演習で、各メンバーの力量、体力の把握ができ、チンボラソアタック時には、ザイルメンバー編成を途中で替えることなく、時間ロスも無かった。 5)結果的に、慎重にじっくり考えた、コトパクシアタックを含むタクティクスがうまく行ったと思う。

チンボラソ頂上2

チンボラソ頂上より



5月5日、バーニョス温泉からキトーへ
バーニョスは温泉地であり、ホテル内にもリゾートホテルとしてのプール、風呂があったが、町はずれの温泉へ、5日の午前中に行った。AL SALADAという名前の温泉で、硫黄泉で、下から熱いお湯の湧く本当の温泉という感じであった。(8ヶ所ほど入れる浴槽があるが、水のプール、ぬるいお湯の方が多い)水着着用しての入浴であるが、女性も一緒で疲れがとれた気がする。その後、キトーに向かい一泊した。

バーニョス温泉

キトー市街


5月6日、キトーから帰国の途に

6日の昼食には日本料理店"将軍"でお寿司を食べ、夜はエクアドル料理のLA RONDAというしゃれた店で、インディオ風のフォルクローレの生演奏を聞きながら、最後の食事をパトリシオ、ルイスと共にした。
彼らには、2週間、本当にお世話になった。
23:30発のコンチネンタル航空で、ヒューストンに向けてキトーを飛び立った。

キトーのレストラン

レストランla ronda



何はともあれ、5名中4名が、つかの間の晴天を掴まえて登頂できたことは、この隊を作ったものとして、何よりもうれしいことでした。そして、この登山は、自分もまだまだ登れるという自信に繋がり、これからのアコンカグアのリベンジにも良い影響を及ぼすものと信じています。


(注)記録を記入したノートをアタック中に落としたため、時間などは記憶と友人からのメモによるので、不確かな情報の部分があることを、お断りしておきます。

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