崑崙6345m未踏峰登頂と新疆ウイグル旅行記

2005年7月16日〜8月10日の記録

Party:伊藤寿男(L)、前田栄三(SL)、泉谷洋光、栗本俊和 (4名共、AACK、笹ヶ峰会会員)

2005年8月24日/ 栗本 俊和

今夏のビッグイベントは、この崑崙の未踏峰に登ることだ。
私を除く3名は、昨年9月に崑崙に偵察に出かけ、自分達にふさわしい山を見つけてきた。イエチェンからチベット越えでラサに向かう街道筋からは見えない山を彼らは見つけてきた。大紅柳灘から奇台達坂(5340m)を越え、最初の左側(東側)に大きく開けた谷を遡登り、北山会BC(5240m)から更に右側(東南側)に曲がって沢を詰めて、初めてこの山にお目にかかれる。誠に奥ゆかしい山だ。(山の位置は、北緯35度41分、東経79度41分)
メンバーは上記4名で、年齢は、66、61、61、56才の平均年令61才。昨年末、呼びかけに応じて参加することにした。以来、毎月の打合せを重ねて、この日を迎えたが、出発は、前田、泉谷が7/14日、伊藤、栗本が7/16日と2グループに分かれ、帰国も、前者が8/8日、後者が8/10日と別れた。即ち、個人山行の集まりで、登山部分は同一行動で、前後の旅行部分は別行動となった。

結果は、8月1日に4名全員が初登頂しました。そして、三高(京大)の”紅萠ゆる岡の花”で始まる”逍遥の歌”3番歌詞にある”通へる夢は崑崙の、高嶺の此方ゴビの原”より、”Yume(夢)Muztagh ”と命名することになった。Muztaghは、ウイグル語で、氷(雪)の山という意味です。
(その後、カシュガル登山協会より、2005年8月17日付の登頂証明書が届いた。そこには、"Muztagh Chush"と書かれていた。"Chush"はウイグル語で"夢"の意味です。2006.01.01追記)

2005.07.26、崑崙6345m未踏峰を望む(Yume Muztagh と命名)


7月16日 成田0930、CA422→1200北京1440、CZ6902→1820ウルムチ
成田発0930の中国国際航空に乗るためには、日暮里0635のスカイライナー1号に乗る必要があったが、16日は3連休の初日で、珍しく満席、立席もダメということで、仕方なく快速に乗り、10分遅れで0740に成田に着いた。
伊藤さんと出合い、航空券を受け取りチェックインしたが、荷物の超過が2人で25kgで、5万円近い支払いとなった。これは予想外で、この先の国内便が思いやられた。
北京では、中国南方航空への乗り換えで、ターミナルが遠く離れていて、時間を費やした。ウルムチ空港着1820、ウルムチは雨が降っていた。空港出口を出たが、迎えが来ていない。人がいなくなり仕方なくタクシーを拾い、予定のホテル・電力賓館へ向った。ホテルの予約も疑わしかったが、予約は入っていて、ホテルに投宿できた。
夕食後、市内散歩に出かけた。少し勉強したウイグル語で話すが、残念ながら、市内中心部ではウイグル語は一切通用しない。完全に中国化されたようだ。ウルムチでウイグル語が通じたのは、明日訪れたウイグル人の多いバザール周辺だけだった。
(東京と北京の時差は1時間。新疆エリアには、非公式の新疆時間があり、北京とは2時間の遅れがあるが、ここでは全て北京時間での表示とします。即ち、夕方の21:00時は、まだ日没前で明るいです。)

7月17日 ウルムチ1740、CZ6809→1925カシュガル

紅山公園よりのボゴダ峰、ウルムチ、紅山公園、バザール、二道橋付近

カシュガル行きのフライトは、この日のみ朝の便が取り消されたため、1740発となったので、昼過ぎまで時間がある。今日は日曜日で博物館は休館日のため、紅山公園とバザールに出かけた。
紅山公園は、市の中心部に位置し市民の憩いの場という感じだ。 紅山公園からは、東の方角にボゴダ峰が見える(上左写真)。バザールは朝から人がいっぱいで賑わっていた(上右写真)。

カシュガル空港には、現地エージェント、Kashgar Mountaineering Adventures の連絡役セディックさんが迎えに来てくれていた。20時頃、チンバック・ホテル(もとイギリス領事館の置かれていた場所に建つホテル)に入った。前田・泉谷両氏は今日、タシュクルカンから帰り、我々を待っていた。夕食は21時頃から、エージェントのDirector,Keyoumさん主催で中華料理店で行なわれた。

7月18日 カシュガル→ヤルカンド→イエチェン

チンバック・ホテルホテル前での記念撮影ヤルカンド・アマニシャーハン墓とイスラム寺院

今日から車でBCまでの移動が始まる。ホテル前で記念撮影(上中写真、左端ドライバー、右端セディック)。
途中、刃物の町、ヤンギザルでナイフを購入し、ヤルカンド賓館で昼食。アマニシャーハン墓などを観光し(上右写真)、イエチェンの石榴賓館というホテルに入る。

7月19日 イエチェン→アカズ峠(3240m)→クディ(2930m)

イエチェンでの出発風景、
トヨタランドクルーザー2台、
イエチェンの女性達


このイエチェンの地に、崑崙山脈を越えチベット高原を走りラサまで続く新蔵公路の0公里道標がある。イエチェンから一路南に向きをとり、アカズ峠(3240m)を目指す。アカズ峠の手前3000m付近から高度順応のため歩いて峠に至る。
峠からは、一気に下り、今日の宿、クディに到着する(イエチェンから161km地点、SPO2:93、脈拍71)。夕食は四川料理。食欲はあまりない。

アカズ峠(3240m)アカズ峠(3240m)クディの宿舎

7月20日 クディ→セラク峠(4900m)→マザール(3735m)
  明け方7時前に気分が悪くなる。明らかに高度の影響だ。トイレに行く。軟便に変わった。SPO2、脈拍共に変わらない。いつもと同じだ。朝食はおかゆを少しだけにする。
今日は、セラク峠(4900m)を越えて、マザールまでの短い行程だ。また峠の手前から順応歩行で峠に至る。マザールには15時20分に着いた、昼食の時間だが、食欲も余りないので食べず。SPO2:88、脈拍74とそれほど変化はない。今日は、マザール泊、マザールから西へ向うとK2のBCに至る。

セラク峠手前に見える6000m級の山々、マザール(3735m)の宿舎

7月21日 マザール→ヘイカ峠(4930m)→三十里営房(3730m)→大紅柳灘(4300m) 
今日の行程は長い。ヘイカ峠(4930m)を越え三十里営房から大紅柳灘まで延々と走る。今朝、下痢止めにエンテロノンRを飲んでみる。ヤルカンド川に沿って走る。ヘイカ峠あたりからは、6000m級の山々が次から次へと現れる。三十里営房には12時30分に着いた。我々は昼食だが、車2台のうち古い方は毎日修理屋に行き、修理している。ブレーキ系統の故障だそうだ。大紅柳灘の手前には、康西坂という乗越しがあり、この近辺にも6000m級の山々が多く見られた。
18時、大紅柳灘の宿舎に入る。スイカがうまい。下痢が止まらないので、夕食は抜きにする。薬はロペランを飲む。空腹に薬を飲んだためか、腹がゴロゴロうなり苦しむが、2〜3時間でおさまる。SPO2:95、脈拍67で、こちらの方は問題なし。満月が砂山に映えて美しい。月の砂漠を連想させる。

ヘイカ峠(4930m)ヘイカ峠付近の6000m級の山々

三十里営房付近の山三十里営房北側6000m級の山三十里営房南側6000m級の山

7月22日 大紅柳灘→奇台達坂(5340m)→新蔵公路の分岐(4950m)→5240m北山会BC地点先までの偵察→アクサイチン湖→大紅柳灘(4300m)
今日はもともと休養日としていた。そのため4人の行動は分かれた。私と泉谷さんは、明日の予定の偵察とオプションで今日予定していたアクサイチン湖の両方を1日で終わらせ、23日を休養にしようと考えて、その行動を取った。伊藤さんは休養で、この近辺を散策、前田さんは、奇台達坂付近での高度順応。
奇台達坂(5340m)を越え、道路から分かれて左側(東側)のABCへの分岐で、山々を眺める。6232m峰は見えるが、やはり我々の目指す6345m峰は位置的に見えない。古い轍を通って、北山会のBCに到着。北側に6468m峰、6362m峰が見える(下左写真)。その先のABC予定地まで行く予定が、ドライバーからガソリン残量の話が出て、途中で引き返し、アクサイチン湖に向う。泉水溝先の湖付近よりは北山会6511mのピークや他の6000m級の山々が眺められた(下中写真)。アクサイチン湖へは、また新蔵公路を外れ、轍をくねくねと通訳バートルの指示に従って進む。湖の水を舐めてみたが、確かに塩辛かった。塩水湖だ。大きな湖であり、湖面が波打っていた。
今日の偵察で調べたかったことは、雪がどの程度の高度まであるのか、そして、ABCを予定の5400mに設置できるか?ということであったが、ABCを予定通り5400m以上に置けることを確認できた(SPO2:88、脈拍70)。


5240mより左6468m峰、右6362m峰泉水溝先の湖より北山会6511m峰他の山々アクサイチン湖

7月23日 休養日
今日は、私は下痢を治すためにも完全休養。バートルも休養、残り3名は、ABCの位置の確定に出かけた。朝食後、ロペラン服用、昨夜と続けて飲み、今日の休養日で全快してほしいと願う。昼食はお茶漬け、と餃子。
ABC位置確定して、3人は戻ってきた。同時に、BCは、509道班でなく、この大紅柳灘にすることも確定した。(509道班というのは、道路修理職人用の飯場で、コンクリートの土間に寝るようになり、サイクリニストが泊まったり、使い勝手があまり良くない。日本での打合せでは、高度的にも4300mの大紅柳灘をBCにと主張していたが、ABCからの戻りが遠いということで、509道班(4700m)をBCにする計画となっていた。尚、509はイエチェンから509kmの意味です。)。
昼食、夕食後も便は出ず、下痢は全快。これでOKという感じで、心さわやか(SPO2:90、脈拍69)。

7月24日 大紅柳灘→C1予定地5800mまでの偵察→大紅柳灘(4300m)
ABCの高度は、北山会BCを5240mで調整して、5440mとする。
ABCを11時に出発して、C1予定地に14時10分に着いた。途中からザラメ雪状態の中を歩く。沢筋では、下に水が流れている場所が多く、少し靴がもぐる。今回は空身で登った。各人、自分のペースで登った。C1の高度は、5800m。
17時、ABC着、スイカがうまい。ABCのテントは、セディク達で設営が完了していた。車で大紅柳灘に戻る(SPO2:88、脈拍72)。

6345m峰を初めて眺めるC1地点に赤旗を建てるABCで、スイカが美味い

7月25日 大紅柳灘→C1設営→ABC泊(5440m)
今日は、C1までの荷揚げとテント設営が目的。ザイル4本、テント3張り、登攀道具、そして水などが主なものだ。
泊まりは、ABCとなる(SPO2:85、脈拍84)。


C1にテントを設営C1から下の谷を見下ろすC1下の斜面を下る

7月26日 ABC→C1→5930mまで順化→C1泊(5800m)
ABCのテントに初めて泊まったが、気温はテント内で−1℃位で、前夜風が強かった(SPO2:80、脈拍75)。
今日は、川の渡渉に難儀した。午前と午後で氷が溶けたりするため、渡渉に良い場所が変化する。C1に着いて、休憩の後、100m程、高度順化のために登った。小さなケルンを建てた。C1泊(SPO2:74、脈拍79)。


5930m地点より、
C1テントと北の山々
7/27、6060m前衛峰より
上部を望む

7月27日 C1→6120mまで偵察・ルート決定→C1泊(5800m)
C1は激しく風が吹いていたが、朝方には止んだ。テント内の最低気温は0℃程度、ABCと変わらない。下弦の月が妙に輝いている。天気良し。ルート偵察には、絶好だ。
昨日の最高到達点のケルンを過ぎ、6060mの前衛峰に着く。頂上までのルートは明瞭だ。左の岩混じりの主稜線を登り、頂上稜線の左の肩に登る(上右写真)。そこからはなだらかな傾斜で、右の最高点に達する。コルからトラバースして右の尾根(最高点から下っている尾根)に取り付くという案は考えようがない。左の稜線は、特にFIXなどのルート工作を必要としないように見える(C1までザイルや登攀道具を荷揚げしたが、どうも余り必要なさそうに見える)。
コルに下り、左主稜線をできるだけ登ってみる。6120mまで登り、全員の到着を待つ。予定通りの偵察ができ、ルートも決ったと考えていたところ、今日ここでビバークして明日登頂しようという意見が出て、少しの議論となったが、予定通りここで下山と決定、偵察行動終了。C1に戻る。2人(伊藤、泉谷)が1時間程遅れてC1に戻る。C1テントは2張りで、伊藤、栗本と前田、泉谷に別れている。我々のテントでは、伊藤さんの食欲がなく、薬を飲んで寝るだけであったが、明日は大紅柳灘まで降りるので、大丈夫だろう。隣のテントとは、10m程離れていて、毎夜、トランシーバで打合せをする。(SPO2:71、脈拍81)。

7/27、6100m地点より、
前衛峰6060mを望む
7/28、509道班と
その裏の6000m峰

7月28日 C1→ABC→大紅柳灘(4300m)
今日は下山のみ。ABCに11時過ぎに着き、大紅柳灘に13時40分に着いた。昼食はラーメン、五目ひじき、玉子(SPO2:87、脈拍56)。

7月29日 休養日
朝食:肉まん、昼食は隣の店で中華料理。
夕方、アタック計画を話しあう。全員登頂のためには、C2を設営し、そこからアタックするのが最善という案に落ち着き、C2設置と決る(可能ならば、C2設置できるように、テント1張りを持参している。SPO2:90、脈拍53)。

7月30日 大紅柳灘→ABC→C1
珍しく曇天の天気。ABCまで車で行き、C1に15時頃に着いた。SPO2の値は良いし、完全に順化しているようで、高山病の兆しはない(SPO2:88、脈拍63)。

7月31日 C1→C2泊(6050m)
テント、食料、水などを分担して持ち上げ、C2設置し、泊まるのが、今日の予定。
C1を出発し、12時頃、6060m前衛峰に着き、休憩する。テント場を偵察し、最低コルに決める。テント設営。高所順化のため、また100m程登り、前回の到達点より少し上まで登り、C2に降りる。テント1張りに4人寝ることになるので、狭い、今日1日の辛抱で、皆な我慢する。下弦の月が毎晩きれいだ(SPO2:77、脈拍73)。

7/31、C2設置前、前衛峰6060mで憩う

8月1日 C2→頂上アタック(6345m)→C2→C1
頂上アタックの日、出発は8時半を過ぎた。頂上までの高度差は300m、それほど時間はかからないであろう。曇りの天気で、あまり天気は良くない。風が吹き少し寒いといっても、−2℃程度であり、寒いうちには入らない。
少し急斜面を登り、左稜線からのジャンクションピークに達したのが10時40分頃。後は、緩い稜線を最高点に向けて歩くだけ、それでも1時間近くあるのかなと思ったが、11時5分に最高点に達した。それより向こうは、3方向共に低くなっていく。6345m未踏峰の頂上だ、一面の雪面で、写真を撮る。伊藤さんは、岩瀬さんの写真を抱いて、永年の夢の実現に喜ぶ。
11時40分、下山にかかる。12時35分、C2着。テント撤収。15時20分、C1着(SPO2:80、脈拍70)。
4人全員が一緒に登頂できた。C2を設置したおかげで、頂上まで2時間半に短縮できた。

2005.08.01、崑崙6345m未踏峰(Yume Muztagh)頂上にて

6345m未踏峰頂上C2へ下山

8月2日 C1→大紅柳灘→三十里営房
バートル、セディクが荷降ろしのため9時過ぎに登ってきた。約束は11時だった、2時間も早い。我々も予定を早めて、10時半には、出発できた。12時半には、ABCに到着。メロンがうまい。13時過ぎにABC出発、大紅柳灘には3時前に着いた。ただ、1台の車が遅れる、ラジエター系の故障だったとか。
大紅柳灘の出発が遅れたため、三十里営房には、19時半過ぎの到着となった。ここは夕食の後、ただ寝るだけ(SPO2:90、脈拍68)。

C1で、下山前に大紅柳灘で、宿舎の親子と

8月3日 三十里営房→クディ→イエチェン
今日はイエチェンまで走る予定。335km地点で、道路が決壊し修理中の場所に出くわす(下写真)。また、ヘイカ峠先では、タイヤパンクの修理、それでも、12時にはマザールに着く。セラク峠を越え、勝利橋からは一部舗装あり、14時にクディの通関所に着いた。
ところが、軍隊の演習があり、200台の車両が通過完了までは道路閉鎖とのこと。仕方がないので、歩いてクディの町に入り、とりあえずウイグル料理で昼食にする。
時々、軍の重車両が通過するが、200台の通過が何時になるのかわからず、往きに泊まった宿に、とりあえず宿泊含みで休憩する。今日はもう無理だろうと諦めていたところ、突然に通訳のバートルが入ってきて、行けそうだ、すぐに出発だと言う。軍に話をつけてきたという、実際、指令車の先導で町を抜け、重車両が道を閉鎖している軍の関門で、種々のチェックを受け、漸く関門を通過したのは、20時を過ぎていた。道路閉鎖のためだれも通ってない道を飛ばして、アカズ峠を明るいうちに通過し、イエチェンには23時すぎに到着した。
今日はバートルのお陰で1日遅れることなく通過でき、彼の今回の最大の貢献と言えるだろう。

道路決壊し、修理中を通過

8月4日 イエチェン→カシュガル
11時イエチェン発、17時カシュガル/チンバック・ホテル着。

8月5日 カシュガル観光
今日は、現地エージェントのKeyoumさんのところへ伺い、登頂の挨拶、登山費用の精算及び山の命名の相談をする。11時から14時頃までかかり、結局、精算は少々の追加料金を払う形で収まった。また、山の名前は最初に書いた形で、いずれCertificateが送られてくることになった。
今日はこの後、タシュクルガンまで行く予定であったが、タシュクルガン行きは追加料金がかかるので、当初の予定通り、明日のカラクリ湖日帰り旅行に変更した。よって、今日の午後は、カシュガルの市内観光に切り替えた。
市内観光は、下の写真に示す、エイティガール寺院(イスラム教寺院で新疆最大規模を誇る)、と莫爾仏塔(郊外に残る仏教遺跡)、そして帰りにバザールに立ち寄った。

エイティガール寺院莫爾仏塔バザール

8月6日 カラクリ湖観光
カラクリ湖への観光では、ムスターグ・アタ(7546m)とコングール(7649m)の美しい姿を堪能できた。

コングール(7649m)ムスターグ・アタ(7546m)と
カラクリ湖

8月7日 カシュガル1035、CZ6804→1215ウルムチ
ウルムチでは,バートルさんの紹介で、高級ホテルのホリディ・イン・ホテルに安く泊めてもらった(今は、グランド・ホテルと名前を変えたようだ)。
東京への帰りのフライトを11日から10日に変更する作業を空港で試みたができず、市内の中国国際航空と南方航空にそれぞれタクシーで行って、やっと変更が完了した。
南方航空の隣に日本料理屋があった。「江戸の桜」という店で、昼食に、蕎麦を食べた。夕食は、バザールの近くの国際大----院という値段ばかり高い(158元)所で舞踊ショーを同時に見たが、大きな場所で人も満員で、物足りなかった。

8月8日 ウルムチ→トルファン観光
9時にウルムチを出発し、高速道路で一路トルファンへ向う。途中、風力発電の風車がたくさんあったり、中国のかわりっぷりをたっぷり見せて頂き、トルファン賓館(下左写真)に12時に到着、まずは、本日の部屋の確保を確認してから、昼食。そして、午後は、西遊記に登場する火焔山、仏教石窟のベゼクリク千仏洞(下中写真)、城址遺跡の高昌故城、ミイラの眠るアスターナ古墳群の順に見てまわった。
夜は、このホテルの屋外で行なわれる民族舞踊ショーを見た、30元(下右写真)。こちらの方は、庶民的な感じで、値段もお手頃だった。

トルファン賓館ベゼクリク千仏洞民族舞踊ショー

8月9日 トルファン観光→ウルムチ
今日は、交河故城とカレーズ楽園の観光の後、ウルムチに戻る。交河故城とは、ふたつの川が交わる高台にある城址遺跡で、なかなかの大きさであった(下写真)。カレーズとは、地下水路を利用したオアシスのことで、これもなかなか大規模な土木工事であり、一見の価値ありのものです。

交河故城の入り口交河故城の仏塔

そして、高速道路を利用して、ウルムチに昼頃戻った。午後は、博物館で、ミイラを数多く見せてもらった。
夕食は、バートルと彼の友達を交えて、ウイグルの庶民的な店で、シシカバブとナンと少しのお酒で夜は更けた。

8月10日 ウルムチ1005、CZ6901→1330北京1650、CA421→2130東京
北京で乗り換えて、成田には、21時半、自宅には、24時までに、帰り着けた。


<感想その他>
1.全員の登頂は、C2の設置に拠るところが大きいし、それよりも、ルートに困難な個所がなかったことが一番大きいです。
いろいろと登攀道具を持参したが、またそれらをどれだけ持参するかで議論もあったが、それらは全て不要に終わった。うれしい誤算ということになるでしょう。
2.新疆ウイグルのこの地域 は国境地域であり、登山許可の他に軍などの許可が必要で、個人では簡単に入れない。実際、我々の他にこの時期、登山隊はいなかった。そういう意味で、この地域に入れ、多くの6000m級の未踏峰を眺めることが出来たのは、初登頂にもまして、有益なことであった。時間があれば、地図と参照して、まとめてみたい。
また、道路は軍の管理であり、8月3日のようなことが、起こり得る。道路は、橋が少ないためか、上部に雨が降るとすぐに決壊する個所がある。その決壊個所は、雪溶け水で午後に増水する。
3.高度障害は、特に予防薬を飲まなくても、問題はなかった。他の3名はダイヤモックスと柴苓湯を飲んでいたようだ。3000m付近で下痢になるのは、いつものことであり予想していた。ただ、今まではどの薬が良いのか解からなかったが、今回、いろいろ試してみて、ロペランが効いた。
中華料理他、油分の多い料理が多く、夕食後、胃腸薬を飲むことが多かった。ビタミン剤も時々、飲んだ。スイカ、メロンのフルーツを食べていたので、それ程必要性は感じなかったが、利尿効果もあり(私には)、時々飲んだ。

最後に、今回の登山では、一緒に登った伊藤隊長、前田副隊長、泉谷洋光さんを始め、通訳のバートルさん、現地エージェントの方々、また、間接的にも、名前は省略致しますが、多くの方々にお世話になりました。改めて御礼申し上げます。


終わり


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