ラダック・ザンスカールの旅(8)ザンスカールからジュルド、カルギル、スリナガルへ | ||||||||||||||||||||||
10日、サニ僧院訪問の後、帰路に入る。今日はペンシラ(4400m)を越えて、ジュルドのテント場までです。ペンシラへの登り開始のところに氷河湖があります(左下写真)。そして登り始めると、往きにも見たドゥルン・ドゥン氷河とZ3峰(右下写真)が良く見えてくる。
ペンシラを過ぎてジュルド地区に入ると、ランドゥム僧院に立ち寄る(右下写真)。広いスル川の草原にそびえる高さ30mほどの岩の丘にゲルク派の寺が立っている。この僧院では、2000年に仏教徒とモスレムの対立に端を発し、3名の僧が武装ゲリラに射殺されるという不幸な事件が発生した。そのためか、入り口に軍が管理するチェックポイントがあり、スタンジーさんがパスポート番号を書いたメンバー表を渡している。
宿泊するジュルド(4000m)のテントハウスは、左下写真の2人用テントが10数個並んでいる。すでに明日カルギルまでを目指して、イタリア人とイスラエル人のグループがテントに入っている。明日向う道は、道路の不通区間が20kmから10kmに減ったとは言え、はっきりとしたことは不明で、6日の土石流災害以降まだカルギルに抜けた車はないそうですから、沢の渡渉と何時間かの徒歩が要求されている状況です。 左下写真は11日早朝の写真です。7000m峰のヌン、クン峰が見えたので写真を撮ります。宿のオーナーの話では、クン峰だそうです。ここで私のデジカメのバッテリーがなくなり、以後の山の写真はKさんの一眼レフ望遠カメラでの写真をお借りしました。右下写真はまさしく望遠の威力で、中央奥の白いピーク、クン峰の拡大写真がばっちりと良く撮れています。
AM6時40分出発。車で1時間ほどの話が1時間半ほど走れ、その先が道路崩壊箇所。沢2本増水のため道が破壊されていて、渡渉を余儀なくされる様子が見て取れる。。そこにちょうどカルギル側から我々の迎えのタシさんが着いた。彼は早朝に車を4台チャータして不通箇所を徒歩で来てくれた。不通箇所は6kmに減っているとの説明です。男性は全員、自力もしくは、タシさん達のサポートで渡渉したが、女性の中には、おんぶしてもらい渡った人もいた。その後は、徒歩で4kmほど歩き、最後の崩壊箇所を通過すれば車が待っていた。10時過ぎに着いたので、結局、不通区間通過は2時間弱で済んで、みんなホットした。でも結果的には、よいハイキングになったという見方もありました。ただ、重いスーツケースの運搬には大丈夫かなとの危惧がありましたが、ドライバーさん、キッチンスタッフ、ガイドさん達による渡渉の後は、うまく現地人のヤク?達に引き継ぐことができ、こちらもうまくいきました。 パルカチックを通過して、スル(Suru)のチェックポイントまで来ると、ヌン(Nun)、クン(Kun)峰の雄姿に初めて出会えた(下写真)。
ザンスカール・ヒマラヤの最高峰で、これより西のヒマラヤには7000mを越える山はナンガパルパットしかない(カラコルムは別)。クン峰は1913年のイタリア隊、ヌン峰は1953年にフランス隊により初登頂された。日本隊による初登頂は、ヌン峰は1978年、クン峰は1979年。 カルギルには夕方17時すぎに到着した。懸念していた割には、順調に夕食前時刻に着けて、ガイドさん達が一番安心したことでしょう。バザールに出かける時間があり、久しぶりにイスラム教徒の町を散策した。
12日は、スリナガルへ向う。治安に問題があるとの事で一時はレーに戻るとの話があったが、今度はレーへの道は不通箇所が多すぎて今日中に着かないし、レーが混乱していることもあり、最初の予定のスリナガルへ向う。 ゾジラ峠(3530m)まではまずまず来れたが、その先で道路崩壊による工事箇所があり、2時間半ほど待たされた(下写真)。ここは急傾斜の険しい地形で、崩壊し易い場所です。昼食を摂ったりしながら時間をつぶしたが、12時前に着き、13時開通の予定が14時を過ぎても開通せず、インシャラー、ただ開通を待つだけ、そしてやっと開通した。今度は、スリナガルへ入ると、場所場所に銃を持ったポリス?軍人?が立っていて物騒な感じです。 それでも、有名なダル湖に立ち寄ってくれて、ハウスボートを眺めることができた(下写真)。1980年頃の有名な避暑地で、ハウスボートがたくさんあるが、今では「渡航延期勧告」が出されている地域で、観光客などいないために寂れていて、宿泊客などいません。ホテルも同様に、宿泊客はほとんどいなかった。
13日、警戒の厳しいスリナガル空港からデリー空港に飛び、その日の夜行直行便で成田に帰った。 ラダックという名前は、チベット語で「峠を越えて」を意味する。シルクロードの間道で、パキスタンからラサに抜けるちょうど真ん中あたりに位置するラダックは、どちらからも多くの峠を越えてやっと到着できる場所であった。ちなみに、ザンスカールとは、チベット語で、「白銅」の意味です。かっては流域に銅鉱山があったらしい。 ラダックに、日本の仏教とも深いかかわりをもつ絢爛たる仏教文化が現存していることがわかったのは、インド政府がラダックへの旅行を許可した年、1975年である。小チベットと呼ばれるラダック・ザンスカールでは、中国やチベット本国でもすでにほとんど消滅した仏教が、チベットから切り離されることによって、チベットの最も優れた文化の伝統を今に残している。 今回の旅は、ラサにもない、ラサとは違う仏教文化に接することと、ザンスカールの山々を眺めることが、目的でした。 有意義な旅になり、ラダックを知ることにより、チベットからパキスタン(イスラム圏)に抜けることができました。 【参考文献】 1.旅行人ウルトラガイド、ラダック、高木辛哉著、2006年8月発行 2.図説チベット歴史紀行、石濱裕美子著、1999年9月発行 3.マンダラ探検、佐藤健著、1988年10月発行 4.ラダック密教の旅、佐藤健著、滝雄一写真、1988年2月発行 ラダック・ザンスカールの旅(1)へ戻ります。 |